中飛車の歴史(最古の局面から現代まで)②~中飛車の再評価~

はじめに

前回は戦前までの中飛車の歴史を概説しました。

そして、戦後、中飛車は長い長い沈黙を経て、表舞台に踊り経ちます。

1950年代初期の中飛車

1950年、中飛車中興の祖「松田茂役」先生が順位戦において中飛車を連続採用します↓

当初は、片美濃や木村美濃ではなく、早囲いが中心でした。

対して居飛車は、袖飛車・5筋位取り・銀矢倉などで対応しています。黎明期は、四間飛車の時と同じように手探りだったことがわかりますね。

仮称として、「早囲い中飛車」とでも呼んでおきましょう。

そして、研究が進み、50年末には「ツノ銀中飛車」の形がついに出来上がります。下の局面が、1950年の12月の 順位戦 松田茂役vs原田泰夫の対局の様子です。早囲いから進化して木村美濃+中飛車のツノ銀中飛車の形になっていますね。

ツノ銀中飛車が産声を上げた翌年の1951年、ついに中飛車は大舞台名人戦の舞台に登場します。

升田幸三 vs木村義雄という両雄の激突に、木村名人が中飛車を採用。

こんな局面でした。

後手が木村名人です。なんと、我々が考える反対の方向に王が動きます(;’∀’)

戦型は中飛車ですが、どちらかといえば「天王山」の中央の厚みを作り出すために飛車が移動しただけという意味合いが強いですね。

松田茂役先生が中飛車を採用していると、少しずつ中飛車は市民権を獲得していきます。

1953年には、三間飛車の雄「大野源一」先生も大山康晴戦で中飛車を採用。

何とも現代的な局面が50年代前半には生まれました。

現代でも先手番のエース5筋位取り中飛車+美濃囲いの形です。

後手の大山先生の局面も、現代的な△6三銀型なので、もはやオーパーツに近いものを感じます。

有名な居飛車穴熊一号局も、松尾流穴熊の寸前まで形が進行していたのを考えると、大野・升田・大山の振り飛車ビッグ3の現代的な感覚にはおどろかされるばかりです。

大野先生はこの形を50年代中盤まで採用し続けており、元祖「振り飛車党総裁」「振り飛車名人」の異名は伊達ではないことを証明しています。

大野先生の活躍はこちらにまとめてます。

そして、次回、ついに怪物が動き出します!

中飛車の歴史(最古の局面から現代まで)

はじめに

それでは、前回の四間飛車に続いて、中飛車の定跡進化について歴史を振り返っていきたいと思います。

四間飛車とは違って、中飛車の進化は戦後からはじまるのでそこまでは結構進行が早いです。

しかし、最古の棋譜は四間飛車ですが、最古の局面は中飛車なのは意外と知られていません。

それでは、古来よりアマチュアを魅了してきた中飛車の歴史、はじまります。

安土桃山時代~戦前まで

中飛車がはじめて歴史上に登場するのは戦国時代に活躍した松平家忠の日記「家忠日記」です。彼は徳川家康の親戚で、関ヶ原の戦いに付随する戦いで戦死してしまいますが、趣味が将棋だったようで、中飛車についての局面図を残しています。

ただ、実力はそこまでではなかったようで、趣味の将棋の延長上に中飛車はありました。やはり、古来よりアマに大人気という立場は変わっていません(笑)

名人制が確立した後、将棋界は戦法の定跡化が進みますが、中飛車についての定跡はほとんど未整備でした。

アマチュアには大人気だけど、プロは使わない戦法。江戸時代をとおして、そういう位置にいる中飛車長い冬の時代です。

江戸時代の一大イベント御城将棋でも、他の振り飛車は使われていた形跡はありますが、中飛車が表舞台に出てくることはありませんでした。

しかし、江戸末期の1840年代、一部の棋士が、「ツノ銀中飛車」の原型を使いだします。

この将棋はその後、顧みることなく忘れられていきますが、約100年後の戦後に復活するのは将棋戦法のおもしろいところです。

戦後まで中飛車は「下手の中飛車」や「下手の中飛車、上手が困る」という格言のように、アマチュアが楽しむためのもの。プロは指さないものだと考えられていた。

木村名人の名著『将棋大観』でも初心者用の定跡として紹介されていて、

専門棋士間には、香落戦以外ほとんど指すことがないといっても過言ではない

とまで書かれているような状態です。

あくまで香車落ち専門の戦法と言うのが中飛車の立ち位置でした。

これがまさか、100年後には振り飛車のエースとして君臨するとは誰も思わなかったでしょう。

四間飛車の歴史~江戸時代最古の棋譜から現代まで~

四間飛車の歴史

前回の記事はこちら↓

江戸時代~戦前編

将棋の歴史=四間飛車の歴史でもありました。
現存する最古の棋譜は、四間飛車vs右四間飛車いうのは有名ですよね。ただ、今の振り飛車+美濃囲いというのは、当初は見られなかった戦い方になります。

最古の棋譜も四間飛車でも駒落ち陣形のように手厚い陣形を使っていました。↓がその局面

技術革新が起きたのは、18世紀中期の香車落ちからです。
こちらは上手が振り飛車にしなくてはいけない手合いなのですが、ここで振り飛車+美濃囲いの形が生まれました。

さらに、同時期には左美濃の形も生み出されているのも驚きです。美濃囲いの有効性が確立されたと考えてよいでしょう。

平手でも徐々に姿を現して、19世紀には平手で、振り飛車+美濃囲いの形が登場していきます。

しかし、当時は平手=相居飛車というのが常識。やはり、四間飛車は、香車落ち上手のときのものという意識が強く大流行は、戦後の大野源一の登場を待つ必要がありました。

どうして振り飛車が流行しなかったのか?
それは以下の要因が考えられます。
①飛車を振るのに、一手損してしまうから
②一手損した上に、角道を閉ざすので主導権を握れない
③守勢に回りやすい

これらのことから、振り飛車=香車落ち上手の戦法という意識が生まれていったのだと思います。

戦後黎明期(1950年代)

1950年ごろになると、振り飛車中興の祖である大野源一が、三間飛車+美濃囲いで勝ち星を稼いで平手で振り飛車が市民権を得ました。

1950年中期に大野に触発された弟弟子・升田幸三が四間飛車を連続採用。
△5三銀型四間飛車など、三間飛車に強い影響を受けていた四間飛車が多かったです。

↓は1954年の小堀vs升田戦です。

腰掛け銀(小堀先生は腰掛け銀の専門家でした)vs △5三銀型四間飛車

居飛車側の対策もまだ手探りの状態でした。
いくつかの棋譜を確認しましたが、まだまだ個々の棋士が創意工夫を試している段階です。

・二枚銀による抑え込み(中飛車に対する超速のような形)

・腰掛銀(右四間飛車ではない。上述のような形)

・5筋位取り

・浮き飛車戦法

・対振り矢倉

この中でも、5筋位取りは現代とほぼ同じ定跡で使われていました。やはり、5五の地点は天王山という格言の影響が大きいんですね。

ただ、こちらの定跡は力戦傾向が強いので、個性が強く出ています。しかし、現代の潮流としては、この形が発展してきていると考えるとやはりロマンを感じます。

基本的には、薄めの陣形で中央に厚みを築く居飛車vs厚みはないが守備力の高い陣形に構えてさばきを狙う四間飛車という対立構造が、1950年代の四間飛車の特徴です。

まだ、山田定跡などの急戦定跡は登場していないため持久戦が主流でした。

大野・升田、そして大山という大棋士が振り飛車党に転向する60年代が四間飛車の第一次絶頂期です。

山田定跡等急戦定跡の確立(1960年代中期)

1960年代前半もまだまだ手探りの将棋が続きます。

四間飛車側は、角交換に強い△3二銀型が多い印象で、振り飛車側から積極的に角交換したりする指しまわしも多かったです。

基本は美濃囲いですが、木村美濃も使われることが多く、お互いに暗中模索状態でした。

やはり、主流は天王山の攻防「5筋位取り」

↓は、大山先生vs加藤一二三先生(1963年・王位戦)の局面図です。

このころから、棒銀+舟囲いの急戦がちらほや登場していきます。

現在は、居飛車急戦=先手の定跡ですが、当時は後手でもかなり採用されていました。

大山先生は、棒銀に対して、△3二金型四間飛車を採用して、対策していました。

この対策がメジャーになるのは、大山先生死後ということで、時代を30年以上先取りしていたことになります。おそろしい。

また、大山流雲隠れ飛車という戦法名で、四間飛車から袖飛車への振りなおしも結構得意としていました。

少しずつ、急戦の流れが生まれてきたとき、登場したのが山田道美九段の”山田定跡”です。

斜め棒銀と舟囲いの組み合わせによる四間飛車対策(厳密に言えば、△3二銀型四間飛車への対策ですが)。

当時は先後問わずに使われていましたが、基本的な指し方は現代と変わりません。

また、同時期に4五歩早仕掛けの急戦も増え始めて、1965年前後で、四間飛車に対する急戦定跡の基礎は確立されていきます。

各種急戦と5筋位取りが四間飛車対策として、確立されていきました。

この定跡が現在の四間飛車定跡の根幹になっています。

天才たちの異次元(1960年代後半:居飛車穴熊の登場?)

時代が急戦定跡の登場に湧いていた時、二人の天才は、さらに異次元の世界にまで到達していました。

二人の天才とは、「大山康晴」「升田幸三」の両名。
彼らは宿命のライバルとして、大舞台で何度も戦い名勝負を作り出しました。

そして、1968年の名人戦。
ついに、この戦法が登場しました。
振り飛車の最悪の敵「居飛車穴熊」です。
升田は大山の四間飛車に穴熊で対抗しました。

上の図が、その時の局面ですが、実はこの局面は00年代の松尾流穴熊の登場でプロの研究にのぼった局面でもあります。
いっさい定跡が存在しなかった当時で、自力でここまで到達していたふたりはやはり怪物としか言いようがありません。ただ、結果は穴熊が敗れてしまい、大流行するのはもう少し先のお話。

やはり、対抗策の中心は急戦と5筋位取りです。
また、1969年には次世代の王者中原誠が、玉頭位取りを採用するなど、持久戦定跡も新しい世界を見せはじめるようになってきました。
そして、時代は激動の1970年代に突入します。

新時代の幕開け(1970年代)

大山名人の次の覇者「中原誠」十六世名人が、ついに棋界の頂点に君臨するのがこの時代。


70年代序盤は、中原誠・大山康晴の二大名人の激突する時代でした。
居飛車党は、大山を中心とした四間飛車党に対して、大一番では二つの戦法を中心に戦っています。

その二つの戦法が、「棒銀」と「5筋位取り」です。

71年の中原vs大山戦はこの二つの戦法が基軸となって進んでいます。
急戦の中では最有力と呼ばれる「棒銀」。今では加藤一二三九段の代名詞ですが、実は中原誠十六世名人が対大山四間飛車のために連採していたことが根元にあると加藤先生の著書に書かれていました。

その加藤棒銀の基礎が70年代序盤のタイトル戦なんですね。

70年代中期になってくると中原先生は5筋位取り中心にシフトしていきます。

そして、四間飛車対抗形の最大の技術革新が1976年に起きます。そう、序盤のエジソン「田中寅彦」先生がデビューしたのです。田中先生と言えばなにか?

そう、「居飛車穴熊」です。

当時の棋界では、居飛車穴熊=バランスの悪いイロモノ戦法という評価でした。
升田幸三がタイトル戦で採用後もこの先入観が邪魔して流行が遅れていたのを、一躍振り飛車対策の決定版に押し上げたのは田中先生の功績です。

彼はこの戦法を使って振り飛車党を次つぎと屠っていきます。
70年代後期には、トッププロも愛用をはじめていき80年代には全盛期を迎えることになります。

また、同時期に左美濃(天守閣美濃)も流行をはじめて四間飛車を窮地に追い込むこととなります。徐々に四間飛車に対しては持久戦を取ることが対策の主流になっていくのでした。

※天守閣美濃の創始者は松浦卓造(まつうら たくぞう、1915年 – 1977年)八段です。(参照:『棋士という人生』(石田和雄著))

こうして、最大の天敵の出現によって続く1980年代は振り飛車冬の時代へと突入していきます。

振り飛車冬の時代の到来(1980年代)

振り飛車には持久戦。

少しずつこれが常識化されてきたのがこの時代です。

当時の持久戦は以下の順に指されていることが多かったです。

・居飛車穴熊・天守閣美濃

・5筋位取り

・玉頭位取り

天守閣美濃は穴熊の窮屈さを嫌った棋士に人気が強く、90年代に対左美濃藤井システムが登場するまで、穴熊と人気を二分している状況でした。

5筋位取りは相変わらず人気ですが、勝ちにくさや振り飛車穴熊の流行で少しずつ数を減らしつつある状況。

玉頭位取りは、一部の専門家(有吉先生など)に愛好されている戦法という位置づけです。

特に居飛車穴熊の流行は絶頂期で、加藤一二三先生までタイトル戦で採用しているほどです。

四間飛車は、大山先生・森安先生が最前線で戦っている状況。

特に、森安先生は対急戦定跡で新手を放ちまくり、四間飛車の定跡改革をおこなっていました。

そして、山田定跡に対抗する森安新手(概説すると四間飛車の △3二銀待機型 )に対抗するために、居飛車党が開発した新しい急戦が<鷺宮定跡>です。

これは、青野先生が開発し、米長先生が育てたとされる急戦定跡です。

現在の定跡とは少し違いますが、当時指されていた鷺宮定跡の基本図です。

△3二銀待機型 の四間飛車に対して袖飛車から急戦をしかけていくのが簡単な定跡の狙いです(※実際はかなり難解な定跡なので、簡略化した説明です)

居飛車穴熊と天守閣美濃の居飛車持久戦が優秀過ぎて、この時代は徐々に振り飛車が駆逐されはじめていき、スペシャリストだけが生き残る雰囲気が生まれていきます。

振り飛車冬の時代のはじまりです。

固さの暴力が、少しずつ振り飛車を窮地に陥ることとなります。

90年代前半は、さらに氷河期がはじまります。

振り飛車暗黒期という名の革命前夜(1990年初頭)


90年代
ついに昭和が終わり、平成が始まった時代。
振り飛車党には暗黒期が到来していました。

今まで振り飛車党を引っ張ってきた大山先生・森安先生が亡くなったのです。振り飛車党の両翼をもがれた状況となってしまいました。

しかし、天敵穴熊を打倒すべく、若手とベテランは90年代前後に次々と新構想を作り出していきます。

・居飛車党から四間飛車党に鞍替えした小林健二先生の「スーパー四間飛車」
(四間飛車に厚みの概念をもたらした画期的な四間飛車。藤井システムや現在の四間飛車の源流の一つ。5六銀型を主軸に、銀冠からの地下鉄飛車など縦からの攻撃を有効活用する四間飛車)


・アマからプロになった櫛田陽一先生の「世紀末四間飛車」
(オーソドックスな四間飛車から穴熊を見た瞬間に△4五歩と突く急戦策など)

・序盤から積極的にポイントを稼いでいく積極的な振り飛車の祖・杉本昌隆先生

彼らが作った下地が、ついに一人の男による革命を巻き起こします。そう序盤の革命家・藤井猛先生の登場です。藤井先生の四間飛車は、小林先生の「縦からの攻撃」・櫛田先生の「穴熊を組ませる前の速攻」・杉本先生の「序盤研究」の下地を受け継いでついに革命を起こすのです。

藤井システムの栄光(1990年代中期~後期)

天才藤井猛の登場。

彼の才能は、まず対左美濃藤井システムの発明からはじまった。

王を7一の地点に待機させて、玉頭戦に挑む構想。

これが対天守閣美濃(左美濃)の決定版となりました。

この藤井システムにより、穴熊と二大タックを組んでいた天守閣美濃は一気に衰退。

未だにこの対策が有力だと考えられており、プロ間の天守閣美濃は激減する結果となっています。

そして、いよいよ革命家は、居飛車党の本陣である穴熊に勝負を挑むのでした。

そう、対居飛車穴熊版藤井システムの完成です。

革命の起きた日は「1995-12-22」の順位戦

藤井vs井上の伝説的な対局です。

居飛車穴熊で高勝率をキープしていた井上先生に、藤井先生は居玉のまま穴熊崩しを敢行。

47手で投了に追い込みました。

これ以降、四間飛車は完全に王道戦法として復活しました。

羽生先生・谷川先生のタイトル戦でも採用されるなど、居飛車党の棋士まで四間飛車を指し始めるなど一躍ブームになりました。

ブームの中心にいるのは革命家・藤井猛。

藤井システムと四間飛車を武器に、後に名人となる丸山先生を新人戦決勝で破り優勝するなど着々に階段を登っていきます。

※翌年も優勝し二連覇。

また、他の振り飛車党も、小林先生の「立石流」(アマ強豪が発明した対居飛車穴熊戦術。四間飛車から石田流に変化する積極策)、鈴木大介先生の「鈴木システム」(あえて、穴熊に組ませて、銀冠で上から押しつぶす構想)を武器に奮闘します。

これらの戦術が、現代四間飛車の大元になっていますね。

そして、98年の竜王戦。

居飛車党の強豪谷川浩司竜王を相手に、挑戦者藤井先生は4-0のストレート勝ち。

四間飛車の絶頂期、ついに革命家はタイトル序列1位の竜王位を獲得し、棋界最高位に革命家が君臨した瞬間です。

翌年の竜王戦では、前述の鈴木大介先生が竜王挑戦。

全局対抗形の戦いになって、藤井先生が竜王防衛。2連覇を達成します。

世紀末。再び四間飛車は、大山名人以来の頂点に到達したのでした。

新世紀の幕開け(00年代初頭)

ついに21世紀がはじまった将棋界。
時代の覇者「羽生善治」が、竜王藤井猛に襲い掛かります。

四間飛車の名局ぞろいの新世紀の竜王戦。
有名局ばかりなので、並べたことがある人も多いと思いますが、絶対王者羽生善治相手に、タイトル序列1位に君臨する藤井猛は果敢に応戦。

激闘を制して、竜王戦3連覇という偉業を成し遂げます。

藤井システム全盛の時代。
居飛車党の棋士たちは、そろって打倒四間飛車を目指します。
それにともなって、いくつかの対策方法が生まれていきました。

▲5三銀右急戦・ミレニアム(トーチカ・かまぼこ)囲い・飯島流引き角戦法などなど。

・▲5三銀右急戦
以前からあった急戦策(80~90年代・塚田先生が採用して、高勝率をあげた。一部の変化は詰みまで検討されている)ですが、穴熊に組むのと途中までほぼ同じのため、居玉のままシステムに組もうとする守備力が脆弱な四間飛車を強襲できる。
この対策は優秀で、藤井システムの定跡は修正を余儀なくされました。

後手藤井システムはこの戦法の影響で、後退します。

ミレニアム囲い
中村修先生が発明し、三浦弘行先生が育てた新世代の囲い。穴熊からひとつ王を囲う場所をずらすことで、角道をさけることができ、安定した固さを実現。
こちらも優秀で近年は再評価も進んでいます。

・飯島流引き角戦法
引き角から平美濃を作り互角に振り飛車と戦う戦法です。
こちらも四間飛車側の角からの強襲がないので、安定して戦えます。

さらに、対藤井システムでも穴熊に組むことができる定跡が誕生し、藤井システムは一気に下火となってしまいます。四間飛車に対して、固く四枚穴熊に組む松尾流穴熊が発明されると、対振り飛車に対して勝率7割とも言われてノーマル振り飛車は一気に苦境に追い込まれました。

振り飛車党は、ノーマル振り飛車ではなく、ゴキゲン中飛車・石田流など角交換系の振り飛車にシフトしていくこととなります。

角交換四間飛車の勃興(00年代中期~10前期)

01年には藤井先生が竜王位を失陥。


藤井システムが居飛車側の対策によって減少すると、振り飛車の主流はゴキゲン中飛車・石田流に移ります。

四間飛車は、苦しい立場に追い込まれるのか?

しかし、新しい戦法がやはり革命家によって作られるのです。それが「角交換四間飛車(KKS)」です

本来はタブーである振り飛車側からの角交換を、自分からやってしまうという規格外の戦法です。角交換系の振り飛車が市民権を得ていた時代だからこそ許された戦法ですね。

アマチュアでは、1980年代くらいから指されていたようで、東大将棋部が「角交換四間飛車+振り飛車穴熊(通称”レグスぺ”)」を使って大活躍しておりました。

そこに藤井先生の序盤の構想力が加わります。
先生の力によってレグスぺから少しずつ、美濃囲い中心の角交換四間飛車の定跡が整備されていきました。

しかし、これは苦労の連続であり、かなり負け続けたと後に藤井先生は語っています。

当初は藤井先生を中心にした一部の専門家のみが使える戦法という立ち位置の戦法でした。

また、藤井先生は同時期に”藤井流矢倉”も開発し、棋界に激震を走らせます。

一度は絶不調でB2に転落するも、藤井先生は矢倉と角交換四間飛車を使って復活。

タイトル戦挑戦&B1復帰を決めることにより、角交換四間飛車は振り飛車戦法の一翼を担うほどのメジャー戦法に昇格します。

この当時の四間飛車の定跡を簡単にまとめると……

・鈴木システムなど居飛車穴熊に銀冠で対抗する形


・先手藤井システム(後手番は、厳しいという結論に達していた)

・角交換四間飛車

・四間飛車穴熊

この4戦法が中心になっています。ただ、上2つは勝ちにくいという評価(藤井システムに至っては、指しこなせるのが開発者の「藤井先生」と時代の覇者「羽生善治先生」だけじゃないかと言われるくらい)で、00年代中期~10年初期は下2つが中心となります。

次回は、振り飛車穴熊の歴史と広瀬穴熊の大活躍をお届けします。

振り飛車穴熊の復活(10年前期)


振り飛車穴熊については、ノーマル四間飛車とは少しだけ異なった進化を遂げたので、ここで歴史を概説します。
誕生は江戸時代だが、駒の偏りを問題視されたことからプロの世界で流行するのは昭和中期。
1970年代前後から、”穴熊党総裁”大内先生を中心に、定跡化が進み振り飛車穴熊戦法に進化していきます。
大内先生が名人獲得寸前まで勝ち上がったのも、こちらの戦法による豪快な攻撃が原動力でした。
位取り系統の居飛車持久戦に振り飛車穴熊はめっぽう強いです。もともと位取り対策で使われていました。
ちなみに、穴熊党副総裁は藤井先生の師匠”西村”先生です。

その後も妖刀福崎先生が、絶頂期の谷川先生を振り飛車穴熊で粉砕し「感覚を破壊された」とまで言わしめます。

70年~80年代に黄金期を迎えた振り穴ですが、その後は下火に。

やはり、原因は居飛車穴熊です。
・居飛車穴熊は、振り飛車穴熊と違い4枚穴熊に組みやすく固さ勝ちしやすい。
・飛車先の歩の関係で居飛車がしかけの権利を保有していて先攻しやすい。
・ノーマル穴熊に組むと、振り飛車側が抑え込まれる展開で難解。
・よって、振り飛車穴熊側が先攻しなくてはいけないが、そうすると二枚穴熊など薄い穴熊を強要される。

これらのことから振り飛車穴熊はプロ間では衰退していきます。

一方アマチュアでは大人気でした。
小池重明氏など、アマ強豪はこぞって振り飛車穴熊を採用し高勝率をあげました。

固くて振り飛車という持ち時間が短いアマチュア将棋に特に向いていた戦法のような位置づけになっていきます。

アマ間では独自の進化を遂げていきます。
「筋違い角四間飛車穴熊」や「角交換四間飛車穴熊(レグスぺ)」がその好例。

そして、プロでも四間飛車穴熊の王子”広瀬”先生が大活躍し、王位のタイトルを獲得。
広瀬流穴熊という新しい形がフィットしました。

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どうして、広瀬先生がここまで穴熊で活躍できたのか?
これは私見ですが……

・プロでも随一の終盤力を速度計算でも有利な穴熊戦法で遺憾なく発揮できたこと
・緻密で理論的な定跡研究の成果
・アマチュア時代から穴熊を採用し、アマトップクラスの穴熊使いたちとの死闘から独特な穴熊感覚をつかんでいた。

これらのことが大きいのだと思います。

しかし、四間飛車穴熊も独特な感覚と難解な定跡、プロ間での研究によって相穴熊においては、振り飛車側が苦労が多く勝ちにくい印象があることから一部の専門家だけが使える戦法のような位置づけに落ち着いています。

また、最大の問題は、広瀬先生の居飛車党への転向も大きいとは思うんですが(;’∀’)

振り穴ブームが落ち着くと、四間飛車は角交換四間飛車が一気に主流の地位につくのでした。

現在の四間飛車(~2020年)

ということで、今回が最終回です。

ついに現代編。

現在有力だと考えられている四間飛車の形を個別に紹介して、この四間飛車の歴史を締めくくろうと思います。

A藤井システム

藤井システムは先手番は通用するが、後手番は厳しい。00年代後期からそのような風潮が広がってきましたが、やはり四間飛車党は強かった。

形を修正することで、先手の急戦策を封じ込めることに成功します。

そして、穴熊に組む前に仕掛けるのではなく、組んだ瞬間にしかけを狙うというタイミングをずらすことで穴熊を潰すことができるようになりました。

さらに雁木に変化して、右四間飛車に振りなおして穴熊を押しつぶす作戦まで登場。

この修正によって、後手藤井システムは復活しました。

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Bノーマル四間飛車

従来の四間飛車も、かなり激変しています。

美濃囲い・振り飛車穴熊に拘らない囲いを採用するケースが増えてきました。

居飛車側でも再評価されて復活したミレニアム囲い。

その振り飛車版が右ミレニアム。横からの攻めに強く、美濃囲い以上に穴熊に強くチャレンジができます、

また銀冠に組まず片矢倉のように組んで、玉頭戦に有利に立ち向かう右片矢倉のような構想も最近は増えています。片矢倉にしなくても、銀と金をどんどん前に押し出して戦う美濃囲いにこだわらない姿勢が現在のトレンドです。

詳細は上記の本や↓の本がおススメ。

四間飛車の逆襲 (マイナビ将棋BOOKS) [ 石井健太郎 ]

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Cエルモ囲い

こちらは居飛車の急戦策です。エルモというソフトが好む形

下のような後手の形に構えて、振り飛車を攻め潰す。

舟囲いよりも固いので、振り飛車側の無理なさばきを抑制し、主導権を握れるのがポイント。

固いと言っても、穴熊や天守閣美濃よりかは柔らかいので、勝ちやすさはやや劣るイメージです。ただ、先攻できるのが最大のメリット。

四間飛車よりも、トマホークや三間飛車藤井システムなど穴熊に強い三間飛車を相手にする場合に居飛車党がチョイスすることが多い印象です。

D銀冠穴熊

こちらもソフト発の戦い方。

銀冠と穴熊を組み合わせるとで、固さと広さを追求した形になります。

昔、居飛車穴熊音無の構えというものが流行しましたが、そちらに近いイメージですね。

問題点は理想形に組むまでに開戦してしまうと、金銀の連携が弱くなりがちで固さを主張できなくなりやすいことです。

なので、振り飛車側から先攻することで、結構戦いやすい形になりやすい。

この記事でも述べましたが、手損を気にしないで中飛車に振りなおして攻略が結構勝ちやすいイメージです。

E角交換四間飛車

角交換四間飛車はかなり数を減らしてきています。

自陣角を打ちこむ居飛車の対策がかなり有効で、これを契機に少しずつ数を減らしていっている形です。

詳細はこちらのページが詳しいので、どうぞ

https://shogi.io/kifus/105445(外部リンク)

また従来型は、飛車先の歩の保留も有効で結構厳しい印象(なのに自分は使ってるw)

ただ、新型の△3三角型四間飛車が流行するなど、まだまだ前線で戦っています。

詳細はこちらの本をおすすめします。

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まとめ

以上、簡単になってしまいますがこちらが現状の四間飛車の戦い方です。

最早、新時代とも思えるほど囲いの自由度が高まっています。

詳細は、何度も言うようですがこちらの本を読んでみてください。

振り飛車党は絶対に後悔しない内容になっています。

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以上、簡単に四間飛車の歴史を見てきました。

亜急戦など紹介していない形もあるので、少しずつ追記していくこととなります。

読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献

現代に生きる大山振り飛車【電子書籍】[ 藤井猛 ]

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【書評】『寂聴と読む源氏物語』・『常陸国風土記』・『 日本仏教の思想 』

寂聴と読む源氏物語

寂聴と読む源氏物語 (講談社文庫)

 さて、今日は瀬戸内寂聴の『寂聴と読む源氏物語』(講談社文庫)です。名前の通り『源氏物語』の解説書です。自分は源氏物語を高校時代に読みはまり今でもたまに読み返しております。何度読み返しても面白いんですよね。

 今回の感想ではヒロインの一人「花散里」という人物に焦点を当てたいと思います。実はこの女性、美人ぞろいの登場人物たちの中であまり容姿がよくないないんです。しかし、この女性がある意味では、源氏物語の女性の中で一番幸せだと思います。

 地味で男にとって都合のよい女性。でも、執着がない。多くの女性が、浮気性の光源氏と関わることでなにかしらの不幸にあってしまう。その一方で、花散里は欲がないため常に源氏に信頼されて、長男の養育まで任されてしまう。常に一定の信頼感を得て、しかも嫉妬の炎に苦しむこともない。この本の中でも「世話女房」と言われていますが、まさにピッタリの表現です。

 あえて、物語に加わらないで、一歩引いたところで見ている状態。周囲の女性が不幸な目にあっていても、彼女は飄々としている。紫式部が求めた理想的な生き方を体現しているのかもしれないと思っています。仏教的な生き方というのでしょうか。私は彼女の人生に一種の憧れを抱いています。

 本の感想というよりも『源氏物語』で最も好きな女性の紹介になってしまいました(笑)。

常陸国風土記

常陸国風土記 全訳注 (講談社学術文庫)

 さて、次は秋本吉徳全訳注の『常陸国風土記』(講談社学術文庫)です。なんと奈良時代に書かれた常陸国(現在の茨城県と福島県の一部)についての書です。天皇によって命じられた風土記の中で現存しているのが五つの国のみなのでかなり貴重な本ですね。しかし、現存しているのも、要約版のみで原文ではないのが残念。それでも、奈良時代に書かれた本が読めるのはなんとも嬉しいかぎり。

 では、なぜ常陸国を選んだのか?実は私の出身地だからです(単純)。だからこ、思い入れもある。世間的には地味だと思われている茨城県ですが、歴史はかなり古いのです。それをうまくアピールできていませんが(笑)。農業国として豊かだが地味。これは奈良時代も変わらない感じです。水田も等級は中級のものが多いと書かれていますしね。

 古代人が妄想した「常世の国」という理想郷は、ここにあるのではないか?。なんてこの本には書かれていますが、住んでいてあんまりそんな感じはしません。農作物も海産物もいい感じには取れるのでそれをいっているんでしょうか(汗)。

 読んでいて、古代人の生活は至る所に神さまがいるのだと思いました。地名や行事の由来が、神話にさかのぼれる。神さまと同居していた古代人の生活。貝塚(縄文人のゴミ捨て場)が、巨人がいた痕跡ではないかと書かれているのも面白いです。そして、その伝説が地名とも結びつく。この神話がどこまで現実に基づくのか?歴史学では禁じ手の妄想かもしれませんが、一読書家としてはとてもワクワクする妄想です。実は、これが失われた歴史の真実の断片だった面白いと思いませんか?

日本仏教の思想

日本仏教の思想 (講談社現代新書)

 
 さて、最後の感想は立川武蔵『日本仏教の思想』(講談社現代新書)です。簡単に内容を説明すると、「インドより中国を経て日本に伝わった仏教思想が、どのように受け入れられて、在来の思想である神道などと共存することによっていかに変容したのか」を概説する一冊です。概説書とはいえ内容や用語はかなり難しかったです。ただ、本を読むにつれて、原始仏教と日本の仏教は別物ではないかと思っており、この本にその問題の解答を求めました。

 つまり、日本に伝わった仏教は、中国の老荘思想などと結びついたものであり、はじまりから原始仏教とは異なるものですが、平安時代の空海と最澄を起点に、鎌倉仏教の誕生を経て、江戸幕府の統制という流れのもと変容を遂げたという流れがはっきりわかりました。特に鎌倉時代の変容が、顕著です。

 念仏や題目、禅などによって、仏教が「大衆化」した一方で、従来の厳しい自己鍛錬や難解な理論を放棄(著者はこれを「精緻な知的体系を捨てた」と表現している)したことで、現世救済主義へと主軸を移しました。それは確かに素晴らしいことです。本来、最も救済を必要とするものたちに教えが伝わる一方で、私は原始的な仏教の魅力を切り捨てたことへの口惜しさというものも覚えます。

 原始的な仏教を見つめなおすことで新たな光を見つけることができるのではないでしょうか。

【書評】『少女地獄』・『海神丸』・『殉死』

はじめに

ということで今回の書評は問題作3つを取り上げようと思います。

『少女地獄』

 夢野久作『少女地獄』(角川文庫)の感想です。3人の女たちの破滅を描く中編集ですが、特に看護師姫草ユリ子の破滅を描いた「何でも無い」が面白かったです。

 有能な看護婦であるが虚言癖のある女、姫草ユリ子。大学病院、診療所などに勤めるかたわら、そこの医師たちに嘘をつき破滅していく。彼女が、嘘をつかなくても良いのに嘘をついていることが印象的でした。実家が裕福であると言ったり、知り合いが有名な学者であると言いふらし矛盾を突かれて滅んでいく。

 巨大化した自我によって、彼女は殺されたように思えます。劣等感を克服するための嘘が、自分の存在を大きくし、巨大化したエゴの自重で押しつぶされていく。

 虚言癖までは言わなくても、自分の存在を大きく見せることに熱心な社会は、大きくした重さによって自壊していく。それを風刺しているように思えます。

『海神丸』

さて、次の書評は野上彌生子の『海神丸』(岩波文庫)です。この作品は倫理上のタブーが主題となりますので、苦手な方はご注意ください。

(あらすじ)
 難破し遭難した帆船「海神丸」の乗組員たちの様子を描いた作品。限られた食料と死への恐怖。彼が迫られる究極の選択とは何か。

 (感想)
 問題作です。正直、読んだときに戦慄しました。さらに、驚くことはこの話はとある事実が基になっているということです。人間というのはどんなに文明という衣服で着飾っても所詮は動物にしかすぎないのだと痛感させられました。

 食べること。この行為をしなければ、人間は世界から退場しなければいけません。そして、押し寄せる死への恐怖。極限状態におかれた船員たちがとりうる行動は1つだけ。

 「海の神」と名付けられた船「海神丸」とそこで苦しむ船員たち。これは神という存在の中で生きる人間たちという構図なのでしょう。絶対的な力の上では人間など所詮は単なる動物に過ぎない。科学や倫理で神に近づいたと思っても、召物を身につけただけなのでしょう。

 読んでいて面白い本ではありません。しかし、読むべき本の1冊だと思いました。

『殉死』

(あらすじ)
 日露戦争の英雄であり、軍神とまで称された乃木希典の生涯を描いた作品。明治天皇崩御に際して、殉死した彼は何を考えていたのか。司馬遼太郎が迫る。

(感想)
 さて、今日はもう一つ感想を書きたいと思います。司馬遼太郎『殉死』(文春文庫)です。実は司馬作品の中でこれを一番最初に読んだ本なので、思い出深い一冊です。

 「軍神」乃木希典。日露戦争時の旅順要塞を多大な犠牲を払いながら陥落させた名将というのが、おそらく一般的な評価だと思います。しかし、司馬遼太郎はそれに異を唱えた。俗にいう乃木希典愚将論ですね。こちらの論争は本職の方々が色々と言っているので言及は避けます(笑)。小説の記述が本来の歴史とは異なるなどは置いておいて、司馬は乃木を軍人と個人で評価を分けているような気がします。

 人格者という私生活の乃木と西南戦争で軍旗を奪われ、無策な要塞包囲戦で多大な犠牲を出してしまった軍人の乃木。私生活が素晴らしい人間が、必ずしも公的な立場で結果を残せるとは限らない。結局、人間という不完全な存在が、神格化され完璧な存在にされてしまうことへの複雑な感情というものが作者側にあったのだと思います。

 日露戦争後の国民意識の変化というものを感じ取り、そして、殉死に向かっていく乃木。乃木と国民との認識のずれが、最終的には一九四五年の八月十五日に行き着いてしまうのかもしれません。一時代の終わりが明治天皇と乃木希典の死という事実に象徴化された作品です。

【書評】仏教の大意/史記を語る

『仏教の大意』

知性を超えた先にあるもの


 今日の書評は禅の大家鈴木大拙の『仏教の大意』(法蔵館)です。これは鈴木大拙の講演をもとにした書籍で、仏教についての概説ですが、概説とは思えないほど難しい。

 感想の前に鈴木大拙について少し書きます。禅の大家であり、しかも英語の達人であった彼は禅の思想を英語で紹介し、欧米にまでそれを伝達させました。現在、アメリカ企業で瞑想などが流行しているとニュースになっていましたが、それは彼の活動の延長上にあるのかもしれません。

 禅は難しい。読んでいてわかったようなわからないような突き放された感覚になってしまいます。でも、わからないからこそ楽しい。特に彼の知性の限界についての論述は読んでいて引き込まれます。いくつか引用させていただきます。

  霊性的世界というと、多くの人人は何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。(7頁)

 霊性世界とは普通は非実在のように思えるが、それは知性が無理に実在・非実在に分類化してしまう弊害が作り出してしまう誤解であり、本来は知覚できる世界とそうではないと思われている霊性的世界は同一であるという考え方ですね。知性というものが本来の世界を認識することを妨げてしまっているということか。

 では、仏教的に真の世界を認識するためにはどうすればよいのか?次のように言っています。

  仏教は……真裸(まつばたか)になることを要求します。(17頁)

  仏教―その実はどの宗教でも、それを会得しようとするには、一旦は知性の領域を逸脱しないといけないのです。(25頁)

 いやはや、心くすぐられる文章です。神秘的すぎて、少し怖いくらい。

 深遠な仏教思想を触れてみるのに最適な一冊です。知性を超えるとは一体何か?是非、続きは買ってお読みください(笑)

『史記を語る』

巨星が紡ぐ中国古代史

 今日の書評は宮崎市定著『史記を語る』(岩波新書)です。宮崎市定と言えば、中国史研究の巨星であり、それが大著『史記』を語るので面白くないわけがない。

 当たり前のことなのかもしれませんが、『史記』について書かれているので中国古代史の概説書という位置づけになるんですね。読んでいて気が付きました(笑)

 司馬遷の『史記』というと歴史書ですが、伝説の王から歴史を始めるなど文学的な要素も多く無味乾燥な書物とは一線を画します。専門家に言わせてしまうと真偽がはっきりしないことが問題なのかもしれませんが、それが魅力なんですよね。歴史書というのは編集者の意向によって性質が大きく変わるので、司馬遷(もしくは勝手に加筆した後代の人)がどういった意図でその記述を採用したのかと妄想するのが個人的には好きです。著者も次のように言っております。

  古人には古人の考えがあり、後代には後代の考えがある。後代の人が当時の考えによって、歴史の書き方を改めるのは当然のことであるが、併し若しも後代の考えを絶対に正しいものと思い込み、その立場で古人を批判し、司馬遷の史記の体例が不徹底であると非難するならば、これもまた馬鹿げた話だ……(33-34頁)

 とても勉強になる一文です。現代に生きる人が過去の歴史を見る際に、このような偏見で見てはいけないということなんでしょう。また、著者の歴史観が強く出ている二つの分を引用します。

 「騒ぎさえすれば社会は進歩する、というような我国においてもまだ残存する単純な先入見は、一日も早く脱却してもらいたいと思う。」(57頁)

 「日本の歴史学会に唯物史観が輸入されてから色々な混乱が起きた。最も困るのは事実よりも理論を優先させる者の多いことである。」(140頁)

 どちらとも、当時流行していた唯物史観に対しての批判です。事実を理論に無理やり当てはめて、結果ありきの物を作ってしまうことへの警告です。これは歴史の研究だけではなく、仕事などで応用の利く指摘だと思います。

 ※今回の引用は新書版をもとにしています。文庫版とは異なるのでご注意ください。

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【自作小説】不老不死の薬/革命家

不老不死の薬(歴史)

【本文】
「皇帝陛下、お望みの薬が出来上がりました」
 博士はわたしにひざまずいてそういった。
 運ばれてきたのは、それはとても輝かしい赤い個体であった。

「これにはどのような効果があるのかね?」
「おそれながら申し上げます、陛下。こちらはとある山奥で、とれた鉱物になります。熱すれば銀のように、輝かしいものになります。言い伝えによれば、これを服用することで、大地の力を体に蓄えることができるということです。さすれば、体の老化は止まり、体が鉱物のように頑丈となるでしょう」

「なるほど、それはすばらしいな。服用させていただこう。そちも飲むがよい」
 不老不死。
 なるほど体を老いることのない金属にしてしまえばよいのか。
 さすがは天才と呼び名が高い博士だ。

 ※
 1年後。

 はかせはしんだ。

 どうやらあの「くする」をのむのが、「おすかった」ようだ。
 
 わたしは「かかせ」よりも、わかい。

 ぜったいにでいじょうぶだ。

 すこし、はらがいはい。

 はやく、あの「くする」をのまなくては。



革命家(ヒューマンドラマ)

【本文】
7月9日

 俺たちは革命を目指している。

 おとなたちは、なにも変わろうとしない。

 世界の不公平には目をつむり、自分だけがよければそれでよいと本気で考えている。

 俺は、俺たちは、みんなが自由で公平な世界を創るのだ。

 あんな大人たちとは違うのだ。

 そのために、俺たちはデモをおこなうことなった。

 世界から不公平をなくすためのデモだ。

「政府がこれを認めるまで、おれたちは戦うぞ」と演説をすると、
 仲間たちが大きな歓声をあげてくれた。
 まるで、世界がひとつになったみたいな高揚感だ。

7月16日

 親からもらった仕送りが少なくなった。
 今月は少しピンチだ。
 でも、仲が良いメンバーとの飲み会は楽しい。

「この前の演説よかったな。警察と乱闘騒ぎになってけが人もでたけど」
「大義のためなら、多少の犠牲はしかたないよ。今度は国会に乗り込もうと思っている」
「いいな。おれも一緒にいくぜ」
 みんな威勢のよいことを言って楽しんだ。

 俺たちがいま、世界の中心にいる。多幸感に包まれた飲み会だった。
 
 ※

 ある日、わしは大学時代の日記をみつけた。とてもなつかしい思い出だ。
 しかし、結局、世界は変わらなかった。

 俺たちは普通に卒業して、普通に働いて、普通に退職した。
 いまでは年金暮らしである。

 世の中は不況が問題になっている。テレビのニュースでは、若者の貧困問題が特集されていた。
「まったく、さいきんの若者は情熱が足りんな」
 老いた革命家はそうつぶやいた。

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