【書評】休む技術・ 歎異抄 ・老年について

休む技術

 さて、今日の書評は西多昌規『休む技術』(大和書房)です。簡単にいうと「どう楽しく休んでリフレッシュした方が良いのか」ということを突き詰めている本です。自分は休むことが苦手で、しっかり休んだつもりでもなんだか疲れが残ってしまう。日曜の夜はみごとにサザエさん症候群という状況です(笑)。このままでいけないと思い、この本を読みました。

 この本を読んで、「もっと休みというものを真摯に味わうべきだった」ということに気が付きました。リフレッシュできなかったのは、休みというものに真摯に向き合えなかったからなのですね。

 一切、休まないで動き続けていたら、シャットダウンしないパソコンと一緒で動かなくなりますからね。「仕事のために休む」のではなく、「休むために働く」、「いかに合間に休むのか」のようなスタンスが大事なのだなと気が付きました。

 週末鬱なので、悩む方々におススメの一冊です。

歎異抄

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

自力という傲慢

 さて、今日は唯円著・親鸞述、川村湊訳『歎異抄』(光文社古典新訳文庫)です。なんと『歎異抄』を関西弁訳してしまう思い切った一冊です。

 これ以外にも『歎異抄』を読んでいますが、予想の斜め上をいくので紹介します。はっきり言って賛否両論の一冊ですが、これはこれで面白い。読む人を選ぶ面白さです。

 この本は特に悪人正機説で有名だと思います。

 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(60頁)

 これが

 「善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪いやつがそうならんはずがない。」(17頁)

 と訳されます。うーん臨場感たっぷり。

 どうして、悪いやつが往生できるのか?。私は悪人正機という考えは、人々の傲慢を批判するものだと思っています。つまり、「人が往生するのは、阿弥陀様の力(=他力)によってのみであり、それを自力で成し遂げようとするのは傲慢にすぎない。よって、他力にすがる(もしくはすがらざるを得ない)悪人は往生ができる」ということです。

 原始仏教や修行に力を入れる他宗派とはまた違う思想です。しかし、今まで救済を受けることができない人たち、あるいは一般民衆まで、救いを授けようとした親鸞の考えもまた否定できるものではないと考えております。エリートしか救済が難しかった従来とは異なる、大衆に対する救済。日本でこの宗派が多いのも納得です。

老年について

老年について (岩波文庫)

 さて、今日はキケロー著、中務哲郎訳『老年について』(岩波文庫)です。久しぶりの哲学書ですね。古代ローマの哲学者・政治家のキケローの著作です。

 老いること。ほとんどの人は嫌なことと考える現象です。大抵の人が、青春時代や壮年期などを人生の全盛期だと考えているでしょう。老年=公からの退場や体力の衰え、病気などと結びつき暗いイメージを持つことでしょう。

 しかし、キケローはそれを否定し、老年の意味を考えていきます。「そもそも、老年に体力を求められていない」という説明はもっともですね。必要とされる役割を意識して、その役割を果たして活躍すること。その際に、今までの人生で培った財産を役立てていく。このような行動ができれば、老年期が人生の全盛期にすることは可能だと私は思います。

【書評】『寂聴と読む源氏物語』・『常陸国風土記』・『 日本仏教の思想 』

寂聴と読む源氏物語

寂聴と読む源氏物語 (講談社文庫)

 さて、今日は瀬戸内寂聴の『寂聴と読む源氏物語』(講談社文庫)です。名前の通り『源氏物語』の解説書です。自分は源氏物語を高校時代に読みはまり今でもたまに読み返しております。何度読み返しても面白いんですよね。

 今回の感想ではヒロインの一人「花散里」という人物に焦点を当てたいと思います。実はこの女性、美人ぞろいの登場人物たちの中であまり容姿がよくないないんです。しかし、この女性がある意味では、源氏物語の女性の中で一番幸せだと思います。

 地味で男にとって都合のよい女性。でも、執着がない。多くの女性が、浮気性の光源氏と関わることでなにかしらの不幸にあってしまう。その一方で、花散里は欲がないため常に源氏に信頼されて、長男の養育まで任されてしまう。常に一定の信頼感を得て、しかも嫉妬の炎に苦しむこともない。この本の中でも「世話女房」と言われていますが、まさにピッタリの表現です。

 あえて、物語に加わらないで、一歩引いたところで見ている状態。周囲の女性が不幸な目にあっていても、彼女は飄々としている。紫式部が求めた理想的な生き方を体現しているのかもしれないと思っています。仏教的な生き方というのでしょうか。私は彼女の人生に一種の憧れを抱いています。

 本の感想というよりも『源氏物語』で最も好きな女性の紹介になってしまいました(笑)。

常陸国風土記

常陸国風土記 全訳注 (講談社学術文庫)

 さて、次は秋本吉徳全訳注の『常陸国風土記』(講談社学術文庫)です。なんと奈良時代に書かれた常陸国(現在の茨城県と福島県の一部)についての書です。天皇によって命じられた風土記の中で現存しているのが五つの国のみなのでかなり貴重な本ですね。しかし、現存しているのも、要約版のみで原文ではないのが残念。それでも、奈良時代に書かれた本が読めるのはなんとも嬉しいかぎり。

 では、なぜ常陸国を選んだのか?実は私の出身地だからです(単純)。だからこ、思い入れもある。世間的には地味だと思われている茨城県ですが、歴史はかなり古いのです。それをうまくアピールできていませんが(笑)。農業国として豊かだが地味。これは奈良時代も変わらない感じです。水田も等級は中級のものが多いと書かれていますしね。

 古代人が妄想した「常世の国」という理想郷は、ここにあるのではないか?。なんてこの本には書かれていますが、住んでいてあんまりそんな感じはしません。農作物も海産物もいい感じには取れるのでそれをいっているんでしょうか(汗)。

 読んでいて、古代人の生活は至る所に神さまがいるのだと思いました。地名や行事の由来が、神話にさかのぼれる。神さまと同居していた古代人の生活。貝塚(縄文人のゴミ捨て場)が、巨人がいた痕跡ではないかと書かれているのも面白いです。そして、その伝説が地名とも結びつく。この神話がどこまで現実に基づくのか?歴史学では禁じ手の妄想かもしれませんが、一読書家としてはとてもワクワクする妄想です。実は、これが失われた歴史の真実の断片だった面白いと思いませんか?

日本仏教の思想

日本仏教の思想 (講談社現代新書)

 
 さて、最後の感想は立川武蔵『日本仏教の思想』(講談社現代新書)です。簡単に内容を説明すると、「インドより中国を経て日本に伝わった仏教思想が、どのように受け入れられて、在来の思想である神道などと共存することによっていかに変容したのか」を概説する一冊です。概説書とはいえ内容や用語はかなり難しかったです。ただ、本を読むにつれて、原始仏教と日本の仏教は別物ではないかと思っており、この本にその問題の解答を求めました。

 つまり、日本に伝わった仏教は、中国の老荘思想などと結びついたものであり、はじまりから原始仏教とは異なるものですが、平安時代の空海と最澄を起点に、鎌倉仏教の誕生を経て、江戸幕府の統制という流れのもと変容を遂げたという流れがはっきりわかりました。特に鎌倉時代の変容が、顕著です。

 念仏や題目、禅などによって、仏教が「大衆化」した一方で、従来の厳しい自己鍛錬や難解な理論を放棄(著者はこれを「精緻な知的体系を捨てた」と表現している)したことで、現世救済主義へと主軸を移しました。それは確かに素晴らしいことです。本来、最も救済を必要とするものたちに教えが伝わる一方で、私は原始的な仏教の魅力を切り捨てたことへの口惜しさというものも覚えます。

 原始的な仏教を見つめなおすことで新たな光を見つけることができるのではないでしょうか。

【書評】仏教の大意/史記を語る

『仏教の大意』

知性を超えた先にあるもの


 今日の書評は禅の大家鈴木大拙の『仏教の大意』(法蔵館)です。これは鈴木大拙の講演をもとにした書籍で、仏教についての概説ですが、概説とは思えないほど難しい。

 感想の前に鈴木大拙について少し書きます。禅の大家であり、しかも英語の達人であった彼は禅の思想を英語で紹介し、欧米にまでそれを伝達させました。現在、アメリカ企業で瞑想などが流行しているとニュースになっていましたが、それは彼の活動の延長上にあるのかもしれません。

 禅は難しい。読んでいてわかったようなわからないような突き放された感覚になってしまいます。でも、わからないからこそ楽しい。特に彼の知性の限界についての論述は読んでいて引き込まれます。いくつか引用させていただきます。

  霊性的世界というと、多くの人人は何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。(7頁)

 霊性世界とは普通は非実在のように思えるが、それは知性が無理に実在・非実在に分類化してしまう弊害が作り出してしまう誤解であり、本来は知覚できる世界とそうではないと思われている霊性的世界は同一であるという考え方ですね。知性というものが本来の世界を認識することを妨げてしまっているということか。

 では、仏教的に真の世界を認識するためにはどうすればよいのか?次のように言っています。

  仏教は……真裸(まつばたか)になることを要求します。(17頁)

  仏教―その実はどの宗教でも、それを会得しようとするには、一旦は知性の領域を逸脱しないといけないのです。(25頁)

 いやはや、心くすぐられる文章です。神秘的すぎて、少し怖いくらい。

 深遠な仏教思想を触れてみるのに最適な一冊です。知性を超えるとは一体何か?是非、続きは買ってお読みください(笑)

『史記を語る』

巨星が紡ぐ中国古代史

 今日の書評は宮崎市定著『史記を語る』(岩波新書)です。宮崎市定と言えば、中国史研究の巨星であり、それが大著『史記』を語るので面白くないわけがない。

 当たり前のことなのかもしれませんが、『史記』について書かれているので中国古代史の概説書という位置づけになるんですね。読んでいて気が付きました(笑)

 司馬遷の『史記』というと歴史書ですが、伝説の王から歴史を始めるなど文学的な要素も多く無味乾燥な書物とは一線を画します。専門家に言わせてしまうと真偽がはっきりしないことが問題なのかもしれませんが、それが魅力なんですよね。歴史書というのは編集者の意向によって性質が大きく変わるので、司馬遷(もしくは勝手に加筆した後代の人)がどういった意図でその記述を採用したのかと妄想するのが個人的には好きです。著者も次のように言っております。

  古人には古人の考えがあり、後代には後代の考えがある。後代の人が当時の考えによって、歴史の書き方を改めるのは当然のことであるが、併し若しも後代の考えを絶対に正しいものと思い込み、その立場で古人を批判し、司馬遷の史記の体例が不徹底であると非難するならば、これもまた馬鹿げた話だ……(33-34頁)

 とても勉強になる一文です。現代に生きる人が過去の歴史を見る際に、このような偏見で見てはいけないということなんでしょう。また、著者の歴史観が強く出ている二つの分を引用します。

 「騒ぎさえすれば社会は進歩する、というような我国においてもまだ残存する単純な先入見は、一日も早く脱却してもらいたいと思う。」(57頁)

 「日本の歴史学会に唯物史観が輸入されてから色々な混乱が起きた。最も困るのは事実よりも理論を優先させる者の多いことである。」(140頁)

 どちらとも、当時流行していた唯物史観に対しての批判です。事実を理論に無理やり当てはめて、結果ありきの物を作ってしまうことへの警告です。これは歴史の研究だけではなく、仕事などで応用の利く指摘だと思います。

 ※今回の引用は新書版をもとにしています。文庫版とは異なるのでご注意ください。

―――――――――――――――――――――――

―――――――――――――――――――――――――――

ブログ村のランキングに参加中です。
おもしろかったらクリックしていただくととても嬉しいです。

にほんブログ村 にほんブログ村へ


にほんブログ村

【書評】『人はなんで生きるのか 他四編』/『人生論』

人はなんで生きるのか』

(あらすじ)
 とある貧しい靴屋が、ある日不思議な男と出会う。「神様から罰せられた」という男の身を引き取った靴屋。何年も共同生活送るうちに、男はとあることに気がつき奇跡が発生する。表題の他四編を収録したトルストイの民話集。

(感想)
 さて、今日はトルストイ作、中村白葉訳『人はなんで生きるのか 他四編』(岩波文庫)です。トルストイの短編は、彼の主張が強く出ているので読んでいて面白いです。特に表題「人はなんで生きるのか」は面白い。

 結局のところ、「人はなんで生きるのか」という問いに対する回答「人は愛によって生きる」というのがトルストイの考え方を端的に表現しているのだと思います。「他者を愛する」行為の連鎖が、最終的には神という存在にたどり着く。この思考はトルストイ流の「神の存在証明」なのかもしれません。

 トルストイ作の物語において、この愛の連鎖に気が付く時、光が見える描写に出会えます。『光あるうち光の中を歩め』や『戦争と平和』、そしてある意味気が付いた『アンナ・カレーニナ』などなど。この最後の光を見るために自分はトルストイの作品を読んでいます。この光は、つまりトルストイの言うところの「神さま」だと思います。

 すべての苦悩を超えた先に見えるあの光。すべてが救われた気持ちになります。

 「……愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから」(53頁)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『人生論』

心を摩耗させる社会への挑戦

 さて、今日はトルストイ『人生論』(角川文庫)の書評です。トルストイは私が一番好きな作家の一人で、この作品は物語ではなく、トルストイ本人の思想について書かれています。なので、彼の大作を読む前に読んでおくと作品についての理解が深まるはず。

 彼の思想の根幹にあるものは個人的に以下の3つだと思います。

  ①知識偏重の生き方を否定し、理性に従った生き方を目指す。
  ②自分の持つエゴから離れて、愛というものを中心にして生きていく。
  ③魂の不死を信じることで、死への恐怖を克服する。

 ある意味では原始回帰といえる考え方かもしれません。科学技術の発展により、神をも殺してしまう世界を否定し、夏目漱石の言う「則天去私」のような生き方を追求する。科学の発展という禁断の果実により、自分たちの心や信仰を殺しながら生きている人たちのアンチテーゼですね。

 そして、ある意味では圧倒的なまでもの「楽天主義」にたつ③。人と人とが触れあうことで、互いの魂を交換しそれを保存する。保存した魂が別人と触れ合うことで、他者に自分の魂が動いていきそれが永遠と続いていく。さらに、もう一つ。昨日と今日では自分は別人である。寝ている時に生まれ変わっているようなもので、死というものはその延長に過ぎない。こういう世界で死を恐れる必要があるのか?。すごい発想です。

 これを読んだとき、とても明るい気分になったことを覚えています。トルストイの思想は西洋と東洋の良いところを組み合わせているように思うのでとても魅力的です。

 人生の羅針盤として非常に面白い一冊なのでぜひお読みください!


ブログ村のランキングに参加中です。
おもしろかったらクリックしていただくととても嬉しいです。

にほんブログ村 にほんブログ村へ


にほんブログ村