目次
はじめに
前回は戦前までの中飛車の歴史を概説しました。
そして、戦後、中飛車は長い長い沈黙を経て、表舞台に踊り経ちます。
1950年代初期の中飛車
1950年、中飛車中興の祖「松田茂役」先生が順位戦において中飛車を連続採用します↓
当初は、片美濃や木村美濃ではなく、早囲いが中心でした。
対して居飛車は、袖飛車・5筋位取り・銀矢倉などで対応しています。黎明期は、四間飛車の時と同じように手探りだったことがわかりますね。
仮称として、「早囲い中飛車」とでも呼んでおきましょう。
そして、研究が進み、50年末には「ツノ銀中飛車」の形がついに出来上がります。下の局面が、1950年の12月の 順位戦 松田茂役vs原田泰夫の対局の様子です。早囲いから進化して木村美濃+中飛車のツノ銀中飛車の形になっていますね。
ツノ銀中飛車が産声を上げた翌年の1951年、ついに中飛車は大舞台名人戦の舞台に登場します。
升田幸三 vs木村義雄という両雄の激突に、木村名人が中飛車を採用。
こんな局面でした。
後手が木村名人です。なんと、我々が考える反対の方向に王が動きます(;’∀’)
戦型は中飛車ですが、どちらかといえば「天王山」の中央の厚みを作り出すために飛車が移動しただけという意味合いが強いですね。
松田茂役先生が中飛車を採用していると、少しずつ中飛車は市民権を獲得していきます。
1953年には、三間飛車の雄「大野源一」先生も大山康晴戦で中飛車を採用。
何とも現代的な局面が50年代前半には生まれました。
現代でも先手番のエース5筋位取り中飛車+美濃囲いの形です。
後手の大山先生の局面も、現代的な△6三銀型なので、もはやオーパーツに近いものを感じます。
有名な居飛車穴熊一号局も、松尾流穴熊の寸前まで形が進行していたのを考えると、大野・升田・大山の振り飛車ビッグ3の現代的な感覚にはおどろかされるばかりです。
大野先生はこの形を50年代中盤まで採用し続けており、元祖「振り飛車党総裁」「振り飛車名人」の異名は伊達ではないことを証明しています。
大野先生の活躍はこちらにまとめてます。
そして、次回、ついに怪物が動き出します!
「中飛車の歴史(最古の局面から現代まで)②~中飛車の再評価~」への4件のフィードバック