【書評】仏教の大意/史記を語る

『仏教の大意』

知性を超えた先にあるもの


 今日の書評は禅の大家鈴木大拙の『仏教の大意』(法蔵館)です。これは鈴木大拙の講演をもとにした書籍で、仏教についての概説ですが、概説とは思えないほど難しい。

 感想の前に鈴木大拙について少し書きます。禅の大家であり、しかも英語の達人であった彼は禅の思想を英語で紹介し、欧米にまでそれを伝達させました。現在、アメリカ企業で瞑想などが流行しているとニュースになっていましたが、それは彼の活動の延長上にあるのかもしれません。

 禅は難しい。読んでいてわかったようなわからないような突き放された感覚になってしまいます。でも、わからないからこそ楽しい。特に彼の知性の限界についての論述は読んでいて引き込まれます。いくつか引用させていただきます。

  霊性的世界というと、多くの人人は何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。(7頁)

 霊性世界とは普通は非実在のように思えるが、それは知性が無理に実在・非実在に分類化してしまう弊害が作り出してしまう誤解であり、本来は知覚できる世界とそうではないと思われている霊性的世界は同一であるという考え方ですね。知性というものが本来の世界を認識することを妨げてしまっているということか。

 では、仏教的に真の世界を認識するためにはどうすればよいのか?次のように言っています。

  仏教は……真裸(まつばたか)になることを要求します。(17頁)

  仏教―その実はどの宗教でも、それを会得しようとするには、一旦は知性の領域を逸脱しないといけないのです。(25頁)

 いやはや、心くすぐられる文章です。神秘的すぎて、少し怖いくらい。

 深遠な仏教思想を触れてみるのに最適な一冊です。知性を超えるとは一体何か?是非、続きは買ってお読みください(笑)

『史記を語る』

巨星が紡ぐ中国古代史

 今日の書評は宮崎市定著『史記を語る』(岩波新書)です。宮崎市定と言えば、中国史研究の巨星であり、それが大著『史記』を語るので面白くないわけがない。

 当たり前のことなのかもしれませんが、『史記』について書かれているので中国古代史の概説書という位置づけになるんですね。読んでいて気が付きました(笑)

 司馬遷の『史記』というと歴史書ですが、伝説の王から歴史を始めるなど文学的な要素も多く無味乾燥な書物とは一線を画します。専門家に言わせてしまうと真偽がはっきりしないことが問題なのかもしれませんが、それが魅力なんですよね。歴史書というのは編集者の意向によって性質が大きく変わるので、司馬遷(もしくは勝手に加筆した後代の人)がどういった意図でその記述を採用したのかと妄想するのが個人的には好きです。著者も次のように言っております。

  古人には古人の考えがあり、後代には後代の考えがある。後代の人が当時の考えによって、歴史の書き方を改めるのは当然のことであるが、併し若しも後代の考えを絶対に正しいものと思い込み、その立場で古人を批判し、司馬遷の史記の体例が不徹底であると非難するならば、これもまた馬鹿げた話だ……(33-34頁)

 とても勉強になる一文です。現代に生きる人が過去の歴史を見る際に、このような偏見で見てはいけないということなんでしょう。また、著者の歴史観が強く出ている二つの分を引用します。

 「騒ぎさえすれば社会は進歩する、というような我国においてもまだ残存する単純な先入見は、一日も早く脱却してもらいたいと思う。」(57頁)

 「日本の歴史学会に唯物史観が輸入されてから色々な混乱が起きた。最も困るのは事実よりも理論を優先させる者の多いことである。」(140頁)

 どちらとも、当時流行していた唯物史観に対しての批判です。事実を理論に無理やり当てはめて、結果ありきの物を作ってしまうことへの警告です。これは歴史の研究だけではなく、仕事などで応用の利く指摘だと思います。

 ※今回の引用は新書版をもとにしています。文庫版とは異なるのでご注意ください。

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2 Replies to “【書評】仏教の大意/史記を語る”

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