プロローグ
部屋を出ていこうとする女の腕を、男は強く握りしめた。いつも優しく接してくれる幼馴染の意外なほど強い力に彼女は驚く。手につかんでいたはずのドアノブは、少しずつ遠ざかっていってしまう。金属の冷たい手触りがなくなり、彼女の手は少しずつ熱くなっていく。彼の手を無理やりほどくという選択肢は彼女には無かった。いや、選択権がなかったのだ。彼を一度、裏切ってしまったという罪悪感が、彼女の人生を変えてしまった。
自分の腕が熱くなっていくことを自覚して、彼女はわずかに抵抗を試みた。それが無駄で欺まんだと知りながら。抵抗しなくてはいけない自分の運命を呪うことしかできない。
「ダメだよ、一輝《かずき》くん」
「好きなんだ、世界で一番、聡美《さとみ》のことが好きなんだ」
「だめ、お姉ちゃんを裏切ることになる。そんなことはできないよ」
「奏《かなで》のことを聞いているんじゃないんだよ。俺は、聡美の本心が知りたいんだ」
「そんな言い方ずるいよ。私の気持ちなんて、もう知っている癖に」
「知っているよ。でも、本人の口から聞かなくちゃいけない。そうしないと、俺たちは前に進めない」
「前に進んじゃいけないの。私が本心を言ったら、本当のことを言ったら、私たちは前に進んでしまう。でも、そんなこと許されちゃいけないんだよ。みんなが不幸になるし、誰も報われない。だから、私のことは忘れて。お願いだから、お姉ちゃんのことを幸せにしてあげて……」
「じゃあ、なんで…… あの時、自分の気持ちを押し殺そうとしたんだよ。そうしなければいけなかったんだよ」
「言えるわけないじゃない。そんなこと。私だって、いっぱい悩んだ。たくさん、傷ついた。ふたりのために…… ううん、私たち、三人のために、選んだのがこの結末なんだよ。お願いだから受け入れてよ。そうしないと、私たちはみんながダメになる。私の決意だって、なんのための決意だかわからなくなっちゃう」
「ここで、聡美の本心を聞かないと、俺だってダメになる。たぶん、聡美、お前もダメになる。そんな代償払ってまで進む、奏との未来にどんな価値があるんだよ」
そう言って、男は最愛の人を力強く抱きしめた。ここに本来であればあり得たはずの未来が、再び生まれてしまった。彼女は、それを喜ぶ自分がいることに辟易する。
「メフィストフェレスと出会ったファウスト博士ってこんな気分だったのかもしれない」と彼女は思った。死後の世界での魂の服従を条件に、ふたりは現世の快楽を追求する。好きなひとにここまで言われて、抗えるわけがない。知恵の実によって失楽園した先祖のように、私たちは口をつけてはいけないリンゴをかじってしまう運命だったのかもしれない。
どうして、知恵なんて身につけてしまったのだろう。
彼女は祖先を呪った。
知識や倫理観なんて、自分たちを苦しめるだけなのに。
そんないろんな考えが彼女の頭の中で浮かんでは消えていく。
でも、自分たちがファウスト博士にはなれないことも彼女はわかっている。この選択は、救済を祈ってくれるはずのグレートヒェンを殺してしまうものだから。これ以上はいけない。だから、踏みとどまって。彼女の願いは、簡単に壊された。
彼にブレーキをかけるものはもう何もなかったのだから。
窓から見える木の葉が、ヒラヒラと落ちていく。そのゆっくりした様子すら、彼女たちは見つめることができなかった。そんな余裕もなかった。
「聡美、俺はお前のことをずっと好きだった。世界で一番好きだったんだよ。お願いだ、本当のことを言ってくれ。それだけ聞ければ、あとは、聡美の決断を尊重する。聡美の願いを聞くから」
男は自分がどれだけ残酷なことを言っているかわかってはいた。だが、このタイミングを逃したら、もう二度と聡美とは会えなくなる。そう確信していたからこそ、男は自分の無理を彼女に押しつけた。
女はその言葉を聞いて、今まで、封印していたパンドラの箱を開いたのだった。
何度も見た彼の部屋の天井をみつめながら…… 少しずつ、視界がぼやけていく。
彼女は箱の中に残していた「希望」をついに開放してしまう。
「 」
すべてを明かしたふたりの顔は、自然と近づいていく。それが本来ならばあり得たふたりの姿だったのだから。もうふたりを止めることは誰にもできなかった。自分たちですらそうすることはできなかった。
ふたりは、お互いの体温を交換する。
そして、彼らは一度だけの愛を誓いあった。その口づけの目撃者は、月明りだけだった。彼らが悪人であれば、何も問題はなかったのかもしれない。でも、彼らは優しすぎたのだ。
自分たちの心を監獄へといざなう結果をもたらすと知りつつも、もう止めることはできなかった。
外では、街灯が点滅している。
真っ暗な部屋には、その点滅だけが唯一の光だった。
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Suvajit RoyによるPixabayからの画像(2枚目)