【書評】『人生、惚れてこそ』(クレスト社)

天才たちが見ている地平

(感想)
 さて、今回は趣味の話を少し。はじめににも書いたように、自分は将棋が趣味です。実力は初段程度で、へっぽこなんですがね(笑)

 その趣味に関連して今回紹介するのは、米長邦雄(前将棋連盟会長、故人)と羽生善治(現竜王)の対談集です。『人生、惚れてこそ━知的競争力の秘密━』(米長邦雄 羽生善治共著、クレスト社)。

 羽生善治が七冠を制覇した熱気あふれた年に出版された一冊です。個人的に米長邦雄の著作がかなり好きで何冊か読んで影響を受けております。ぶっ飛んだ方だったのでいろいろ賛否はありますが、生き方や思考がかっこよくて華がありました。二〇一一年、当時最強のコンピュータに挑み敗れた時は大きなニュースにもなりました。彼の根幹にあるのは「勝負に生きるとはどういうことか?」実践的な勝負師の思想です。

 著作にはよく仏教の経典からの引用も多いので、そちら方面にもおそらく相当精通していたのでしょう。実際、この作品にも『法華経』、『維摩経』などから引用したエピソードが紹介されていました。

 いつもながら二つほど好きな文章を紹介します。

  (オウム真理教に対して)
  「結び付けてやるという人間を、絶対視したところが、不幸の始まりでしょう。中間に入って仲立ちをする人だって、お釈迦さまやシバ神や、あるいはキリストから見たら、未熟で愚かな人間の一人なんです。」(22頁)

 真理を求める道は大変苦行が続く行程となります。仲介者による安楽な道を選ぶことへの警報なのでしょう。真理のためには、自ら動き原典に触れていくことが必要になる。そしてもう一つ。

  「学ぶよりも捨てるほうがむずかしい。一生懸命に学んで、どんどん捨てなければ進歩はない」(51頁)

 前回、取り上げた『老子』にも近い発想だと思います。捨てることを恐れないこと。これが変化に対応していく一つの冴えたやり方ではないのでしょうか?

 将棋の棋士というのは大変な競争を勝ち抜いてやっとプロになれる。その競争を勝ち抜いた者たちがさらにつぶし合って、タイトルを争う。その競争の頂点に立ったことがある二人だからこそわかる本質を突いた議論。内容は古いですがとても刺激的です。

【書評】『老子』(講談社学術文庫)

『無知無欲な人生とは何か?』
(感想)
さて、私が一番好きな思想書『老子』(講談社学術文庫、金谷治)の感想です!。年末に毎回読み返しております。これを読み返さないと年は越せないという風物詩。

中国古代の思想書というと『論語』がまず第一にくると思いますが、自分は断然『老子』派です。『論語』は思想書というよりも、なんだか政治学に近いものを感じてしまい少し苦手なんです。人をどうのように組織し、統率するか。そんな風に読めてしまい、変人で自由を愛する私はその外にいたいと思ってしまう。なんとなく権力者側の話みたいで、縛られる側の自分にはピンと来ないのかもしれません。

そう、そんな人の受け皿になるのが『老子』。「権力」や「人間関係のしがらみ」、そこから距離を置く思想。いらないものを捨てていく思想、それが『老子』だと考えています。

この考え方って仏教とかとかなり近しいものを感じます。まあ、この考え方は森三樹三郎の『老荘と仏教』(講談社学術文庫)の受け売りなんですが(笑)

さて、『老子』の中で好きな一文を二つ引用してみたいと思います。

天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。

(書き下し)
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。

(訳)
天は永遠であり、地は久遠である。天地の大自然がそのように永久の存在を続けていけるのは、天も地も無心であって自分で生き続けるようなどとはしないから、だからこそ長く生きつづけることができるのだ。
(32-33頁)

為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。無為而無不為。

(書き下し)
学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じて又た損じ、以て無為に至る。無為にして為さざるは無し。

(訳)
学問を修めていると、その知識は一日一日と増えてくるが、「道」を修めていると、一日一日とその知識は減ってゆく。減らしたうえにまた減らし、どんどん減らしていって、ついにことさらなしわざのない「無為」の立場にゆきつくと、そのしわざのない「無為」のままでいて、それがすべてのことをりっぱになしとげるようになる。
(153-154頁)

自分の持つ執着をどんどん捨てていくことの魅力。「エゴ」というものが自分をどこまでも苦しめている。だからこそ流れに身を任せることも必要なのだと読んでいてはじめてわかりました。夏目漱石ではないけど「則天去私」という心境はこういうものなのかもしれません。

 

おすすめ度 100/100



【書評】『レ・ミゼラブル(一)』(新潮文庫)

「厳しくも優しい世界」

では、早速記念すべき一つ目の感想を!

『レ・ミゼラブル(一)』(新潮文庫、ユゴー(著)、佐藤朔(訳))です。

フランス文学の傑作であり、世界文学の金字塔の一つ。自分は高校時代に一度、大学時代にもう一度、計二回ほど読み、現在GW中に再度全五巻を読み込もうと奮闘中です。

(あらすじ)
生活苦のため、パンを一つ盗んだことにより十九年もの長い期間投獄生活を送ることになってしまったジャン・ヴァルジャン。厳しい牢獄生活と人々の差別により絶望した彼はまた新しい悪事をしてしまうが、その出来事がきっかけで立ち直っていく。一人の囚人が聖人へと生まれ変わる物語。

(感想)
今回の記事は、登場人物の一人「ミリエル司教」について書きたいと思います。

ミリエル司教とは「差別に絶望したジャン・ヴァルジャンを温かく教会でもてなし、ジャン・ヴァルジャンが銀の皿を盗むという裏切り行為をしたにも関わらず、逆に憲兵から彼を庇うという優しさで、彼の更生への道を切り開いた」人物です。

この大作は、「ミリエル司教の考えるままに始まり、動き、終わる」と私は考えています。彼は最もストーリーに影響を与えた人物であり、ある意味では彼の言動を追うことで、物語の主題というものがはっきりと見えてくる最重要人物とも言えます。

特に印象深い彼のセリフを二つほど引用します。
(銀の皿が盗まれた際の一言)
「……わたしはあの銀の食器を、あやまって、しかも長い間、所有していた。あれは貧しい人たちのものだった。あの男はなんだったかね?明らかに貧しい人だよ」(164-165頁)

(銀の皿を盗んだ容疑で憲兵に捕まったジャン・ヴァルジャンを庇っての一言)
「……ところでね、燭台もあげたんだが、あれもほかのと同じ銀製でね、二百フランになりますよ。どうして食器と一緒に持って行かなかったんです?」(166頁)

たとえ、罪を犯しても、人間の根幹にあるものは「善性」であり、その特性を信じることで世界を生きてきた彼だからこそ言える温かみが溢れるセリフです。この「善性」を信じる一種の楽天主義。これがこの大作の主題なのでしょう。

『戦争と平和』のプラトン・カラターエフや『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老・イヴァン。彼らのように作者の主張がそのまま登場人物になったかのような人に自分はとても惹かれます。

 

おすすめ度90/100

※今回の感想に使用した本ですが六十九刷版のため、今の版とは頁数に違いがあると思います。ご注意ください